A WILL あるひ ねこはききました 「どこまでいくの?おじょうさん」 おじょうさんはいいました 「ここからわたしはうごけない」 あるひ ねこはききました 「なんでうごけないの?おじょうさん」 おじょうさんはいいました ... 少女が一人、街の中を歩いていました。 古めかしく、背の高いガス灯がレンガの家を照らしています。 一つ一つがオレンジの丸を映し出していました。 道は石畳で、そこに届く明かりは僅かでした。 誰もいません。 ただガス灯が間をおいてポツリポツリとあるだけでした。 そこを少女がゆっくりゆっくり歩いていきます。 その足音は街の空気をキンと固めるようでした。 大人の腰ほどの背丈に、小さくて細い白い足。 黒い革の靴が微かな光を跳ね返して光っていました。 ブロンドの軽い髪は滑らかに背を伝い腰まで伸びていました。 白いレースのとても可愛らしいドレスを着ています。 小さな右手にだけ黒い手袋をはめていました。 白すぎる少女の肌には不似合いで。 左手に大き目のフランス人形が抱えられています。 この少女を家の窓から見た人は沢山居ました。 しかし誰も不思議がらず怪しがりもしないのです。 それは少女が夜の闇に妙なほど溶け込んでいるからでした。 いいえ。 夜の闇を着こなしているといった方が正しいかもしれません。 少女が歩くとその夜は何事もなく静かに眠っていきます。 お月様さえも眠ってしまうほどでした。 少女は形のいい桃色の唇を小さく動かしていました。 歌を唄っていたのです。 「あるひ ねこはききました ...」 か細く高いその声は鈴の音のように街に響き渡りました。 夜の中に浮かび上がる存在感は何者にも劣りませんでした。 ガス灯も、レンガの家々も、遠吠えをする犬の鳴き声さえも、掻き消す程 です。 気味が悪いくらいの静けさでした。 誰一人として少女がどこから来てどこへ行くのか知りません。 いつも夜明け前にいなくなってしまうから。 夜のうちに会おうとしてもすぐに見失ってしまいます。 追いかけていった人たちの中で戻ってきた人は独りも居ません。 それでも少女は毎晩毎晩歩いています。 そしてある朝。 一人の少年が街に引っ越してきました。 その少年はたった一人。 せっせと荷物を運び込みます。 すると、一匹の猫が足元をするりと抜けてきました。 色艶のいい黒猫でした。 漆黒の毛は眺めていると吸い込まれてしまいそうです。 少年は追い払おうとしましたが、全く出て行く素振りを見せません。 仕方なく少年は飼う事にしました。 黒猫は嬉しそうに鳴きました。 その声はとても高く美しく鈴の音のようでした。 そしてある晩。 少年が仕事から戻ってくると、黒猫はいませんでした。 窓が開いていて、カーテンが風になびいているだけでした。 少年は夜の街へ飛び出しました。 自分の以外の呼吸の音が聞こえないのはとてつもなく寂しいのです。 例えそれが言葉を紡がない猫であっても。 しかしいくら探しても見つかりません。 工場と工場の袋小路。 人気の消えた大道り。 店の閉まった商店街。 夜な夜な悲鳴の上がる裏通り。 でたらめに走り、街を一周する頃にはお月様は真上でした。 それでも見つからないのです。 そのうえ走りっぱなしなので足が震えてきました。 仕方なく歩道に座り込み、探していないところを考えました。 ふと空を見上げるとぼんやりとしたガス灯が丸く光っていました。 その向こうには、幾千もの星とお月様が輝いていました。 そのお月様は、絵本の挿絵のようで綺麗過ぎて気味が悪い。 一瞬疲れを忘れて、空を見つめました。 ――― リ _________ ....  ン その音は鈴の音でした。 右から聞こえた気がして少年は軽く首を動かしました。 でもそこには夜の街道が全てを飲み込むよう闇を讃えているだけでした。 ただ静かに・・・。 「.....ここからわたしはうごけない。」 歌です。 あの少女が左から歩いてきました。 同じ白いドレスを身に纏い、その後ろには黒猫がいました。 少年の直隣に立った少女はこう言いました。 「あそぼ。」 そして笑ったのです。 その笑顔は花の蕾のようでした。 もしくはもうすぐ絶える花の美しさのようでした。 少年はこう答えました。 「もう遅いから明日にしよう?」 「わたしはよるしかあそべないの。」 少女が足元から黒猫を抱き上げながら言いました。 少年はその言葉を不思議に思いませんでした。 その言葉は、少女にしっくり合っていたから。 そしてこう言いました。 「じゃぁ、明日。太陽が沈んだら遊ぼう。」 「うん。」 そう答えた少女は黒猫を少年に差し出しました。 それを受け取るとこう言いました。 「この猫、君のかい?」 「そうだよ。わたしのねこだったの。」 そこで黒猫が一鳴きしました。 黒猫に視線を落とすと、漆黒のまん丸の瞳がこちらを見ていました。 それから視線を離せずにいると、少女の存在が急に消えました。 驚いた少年は急いで顔をあげると左右を見回しました。 どこにもいない。 消えたというより溶けたという方があっているかもしれません。 鈴の音だけが響いていました。 少年は疲れを思い出し家へ戻りました。 初めて気付きましたが黒猫はとても軽かったのです。 部屋に着くと、ベッドへ飛び込みました。 そのまま眠りへと落ちていきました。 家の前には白いドレスを着たあの少女が立っていました。 あの歌を口ずさみながら。 鈴の音を響かせながら。 そして、次の日の夕方。 少年は日が沈みきる少し前から少女と出逢った場所にいました。 歌が頭からはなれず耳の中で繰り返し流れています。 少年は自分が何故少女に違和感を覚えないのか不思議でした。 明らかに可笑しいのです。 あんな小さな少女が夜中の街を練り歩いたり。 夜しか遊べなかったり。 烏が一鳴きして陽は完全に落ちました。 「ほんとうにきてくれたんだ。」 少女がいつの間にか左側に立っていました。 それは日没と同時にそこに浮き出たようでした。 しかし少年は驚くことなく答えました。 「約束だからね。」 少女が笑いました。 「うれしい」と。 そして、そんな少女に連れられ館に来ました。 2人が大きな門の前に立つと、それは奥へとゆっくり開いていきました。 招き入れるかのように。 金属の門なのにあの特有の軋んだ音がしませんでした。 「君の家?」 「うん。」 少女が止まることなく歩いていきます。 少年はそれに続きました。 もう一軒家が建つくらいに広い庭には色とりどりの花が咲いていました。 木々は綺麗に剪定され、整然と立っていました。 閑散としているのになぜか落ち着く雰囲気でした。 黄土色の小さな尻尾を引きちぎれんばかりに振り、子犬が走ってきます。 「じむ!だめだよ。おきゃくさんなの、おうちにもどって。」 少女がしゃがんで言い聞かせるとジムはクゥンと鼻を鳴らしました。 そして目を少し伏せました。 少女が垂れた頭を優しく撫でるとジムはその場に大人しく座りました。 2人は館の中へと入っていきました。 扉が閉まると、門が独りでに閉まりました。 「おにいちゃんがわたしのいえにきたはじめてのおともだち。」 「ままにあって」と奥の一番修飾の細かい扉を指差しました。 少年は手を引かれ歩いていきます。 しかし扉が開かれると少年は小さく悲鳴を上げた。 そして心の底から後悔した。 何故ここにきてしまったのだろう。 何故少女に出会ってしまったのだろう。 そう思った。 少女の抱いているフランス人形が笑ったようで。 その部屋には、部屋いっぱいに真っ赤な薔薇が敷き詰めてあった。 泥も水もないのにその薔薇はドライフラワーでもないのに瑞々しく。 気持ち悪いほどに美しく。 鼻をつく香りはむせ返るほど。 一息すえば、薔薇の香で肺が一杯になって酔ってしまう。 「ほら、あれがまま。」 そう言って、笑顔で少女は指差した。 その先には椅子に座り首を垂れているママがいた。 背筋に氷水を当てられたように悪寒が走る。 見てはいけないものが目の前に口を開けて待っているようだった。 「ママのところまで行っていい?」 「いいよ。」 と軽く返事が返ってきた。 少年は自分の中に渦巻く恐怖と不安を追い払おうとした。 そして、薔薇の中を通って歩いていく。 全く枯れていない薔薇の棘は少年のズボンを引き裂いた。 足に刺さったり、擦れたりして血がジワリと出た。 微かな痛みが体中を駆け抜た。 ママの所につく頃には痛みを感じないほどに切っていた。 そこで、痛みが吹き飛ぶほどの衝撃に襲われた。 扉のところから見たときには赤いドレスを着ているのだと思ったそれ。 しかしそれは間違いで、本当は真っ白。 血で前が真っ赤に染め上げられて。 左胸にナイフが深々と刺さったまま。 もちろんママは死んでいる。 眠ったように穏やかに目を閉じて。 少年は最悪な状況を思い浮かべた。 「もしかして、君が殺したの?」 少年の見開かれた瞳の切羽詰った表情から出た言葉。 「ころ・・・す?それってなぁに?」 少女は聞き返す。 あの無邪気な瞳の輝きは消えて。 確かな知識はなくても直感的に全てを悟ったように。 「殺すって言うのは・・・。」 「わるいことじゃないんでしょ?」 丸い鈍った瞳で見つめられ。 言葉に詰まった。 「何で?」 少年は苦し紛れに聞いてみた。 「だってままがわたしにいったのはそれだけだったよ。」 少年は完璧に言葉を失う。 やはりここへ来なければ良かったと思った。 「わたしずっと『おまえなんかころしてやる』っていわれたよ。」 扉のところでこちらを見ていた少女はゆっくりと歩いきて。 鈴の音が響く。 「でもわたししあわせだったよ。ままがいれくれたんだもん。」 鈴の音がドンドン大きくなる。 「ままのそばにいれたんだもん。」 「そんなの幸せじゃない」と少年は心の中で叫んだ。 でも声にすることが出来ない。 その生活しか知らない子にどう教えたらいい? ママが全てでママを信じきっていた子にどう教えたら。 「君が受けていたのは虐待だよ」と、どう教えたら。 「愛情なんかじゃないんだよ」と。 「わたしのまま、おかしくなっちゃたの。」 その言葉に少年は驚いた。 そして次の言葉が紡がれるのを待った。 「そのひのままはわたしをほめるの。」 「それが普通なんだよ」少年は唇を噛んだ。 拳に爪が食い込む程の怒りを覚え。 どうしてこんな風になってしまったのか。 「だから?」 少年が問いかける。 「ままをかえしてってさけんだの。」 少女が目を閉じて俯く。 「わたし、ごほんでよんだの。まものたいじのしかた。ないふをてにもっ  てそれをしんぞうにつきさすの。そうするとまもにとりつかれているひ  とはもとにもどれるの。でね、ままについてるまものをたいじたの。そ  したらね。まま、しずかになっちゃたの。」 鈴の音は耳を劈くほどの高い音。 「だからきれいなおへやをつくってあげたの。まま、ばらすきだから。」 その薔薇が根元から枯れ始め。 ママの皮膚はズルズルとたるみ、水分が抜け縮んでいく。 少女の髪も伸び始めていた。 「君は辛かったんだ。だからママを殺して楽になろうとしたんだ。」 「ちがうよ。ままがいなきゃわたししあわせじゃないもん。」 薔薇が枯れる。 「なんで?なんでかれちゃうの?」 紅の茶色になって粉々になって消えていく。 ママの紙は抜け落ち、皮膚がなくなっていった。 白くて硬いものが出てきて。 ママの顔は白くて歯を喰いしばって笑っているようで。 しゃれこうべ。 館の床も机も食器も壁も鏡も。 時間が早送り。 時計の針が目まぐるしく回って。 蜘蛛の巣が垂れ下がってきた。 「ちがうよ。ちがうよ。わたしはしあわせだったの。ふこうなんかじゃ、  つらくなんかないんだから。おむかえにきてくれるわらってくれるおと  もだちのままをうらやましいなんておもってない。しあわせだもん。だ  いすきなままがいたもん。ままはそこにすわってるもん。」 少女の色が薄くなっていくのがわかった。 ママは椅子の上で必要以上に痩せていて。 とっても白くて細くて。 「じゃぁ、君がここにも居るのは何で?」 少年は一番最初に見つけた、床の上に転がっている少女を指差す。 その少女は白く痩せて肉も皮もなく、同じ服を纏っていた。 「そんなの・・・わたしじゃない・・・・もん。」 少女が更に薄くなる。 しかし、そこで止まった。 瞳からは涙が流れていた。 少年の足元に転がった少女の黒い穴からも水が流れ。 少年は、カーテンの引かれている窓へ歩み寄った。 「もう、いいんだよ。」 カーテンをゆっくり開けました。 光の筋が徐々に大きくなっていきます。 部屋の中をぼんやりと浮かび上がらせます。 「しあわせだったもん。だいすきなままと・・だいす・き・・・な。」 少女は消えました。 視覚だけではなく、感覚が軽くなりました。 時計も止まっていました。 館全てが急に時が流れたように変化しました。 埃が沢山つもり、鏡はひび割れていました。 少年が通ったエントランスホールのシャンデリアはもう見えません。 蜘蛛の巣で娶られています。 赤い絨毯は糸が切れて、ほつれて色も褪せてボロボロでした。 大理石だったゆかには、靴の底が隠れるほどに埃が溜まっていました。 そしてそれには足跡はただ1つ。 少年はその隣を逆方向に歩いていきます。 そして入り口に着きました。 扉は折れていました。 中の金属が錆びていたのでしょう。 そこを通り抜けると座っていたはずのジムは転がっていました。 白く細く。 綺麗だった花は全て枯れていました。 木々は緑の葉をつけていません。 腐っているのか枯れているのか。 草が少年の背を軽く越しています。 門は折れ曲がり、止め具は外れていました。 あちらこちらに残骸が散らばっていました。 またそこを通り抜け、館を振り返り仰ぎました。 蔦に絡み浸かれ窓ガラスのほとんどが割れた湿っぽい館がありました。 あの綺麗な少女の家だった館はどこにもありませんでした。 すると小さな小さな歌声が聞こえてきました。 それは何を唄っているのか聞き取れませんでした。 ただ鈴の音に似ていました。 それを聞いていた少年は胸が痛くなりました。 ママの愛情が欲しくて心の底ではずっと我慢していたのに。 辛くて辛くて、頭より先に心が悲鳴をあげたのです。 愛情を、自分の守り方を、幸せというものを知らなかった少女。 生まれてときからの生活でそれが当たり前だと思いずっと耐えてきた。 きちんとした教養も知識もなく。 それはママの過ちなのです。 しっかりとしなければならないのは少女ではなくそれを守る母親です。 我慢の仕方がよく分からない、力の制御が上手くいかない幼い子供。 そんな子達はここが悲鳴を上げたら何するか分からないのですから。 少年は少女の歌っていた歌を唄いながら、帰って行きました。 部屋の中には黒かった猫がいました。 今は痩せて白くて細くて。 それを裏に埋葬しながら願いました。 夜が 明けていきました。 あるひ ねこはききました 「どこまでいくの?おじょうさん」 おじょうさんはいいました 「ここからわたしはうごけない」 あるひ ねこはききました 「なんでうごけないの?おじょうさん」 おじょうさんはいいました 「               」 おじょうさんは わらうだけでした 館の門のところにはフランス人形が座っていました。 それは新品のようで。 そしてそれは独りの子供に拾われていきました。 走っていく足は傷だらけでした。 火傷。 痣。 切り傷。 フランス人形の目が奇妙に微笑んだように見えました。