カルマの坂 参考:PORNO GRAFFITTI様アルバム[WARLDILLIA]より『カルマの坂』 何も要らないから 誰にも何も与えないで欲しい 誰からも何も奪わないで欲しい 何も要らないから 何も要らないから レンガを見た。 たくさんのレンガが見えた。 人の欲望のように赤くて。 なによりも綺麗でいて。 とてつもなく醜い人間を包み込んでいくような冷酷さを称えてそこに在っ た。 いくつもいくつも人の足音が交じり合うその中で、体重を感じさせず飛ん でいくものがひとつ。 レンガに足がつく途端にまたその足を蹴り上げて。 小さな息遣いとほとんど聞こえる事のない足音は雑踏に紛れるというより は存在せずに過ぎていくように。 何にも目を奪われる事なく人と人の間を糸で布を縫うような円滑さですり 抜けていく。 どこまでもどこまでも届く風のようにどこまでもどこまでも行けるように 見えた。 底の擦り切れた靴で走る姿は滑稽でそれでも誰よりも気高くて。 手など届きやしない。 手を伸ばしてはいけない。 触れてはいけない。 軽く震えを覚えているらしいその手には腸詰が握られていて。 暗く湿った路地裏に入り込むとそれに齧り付いた。 瞳にはうっすらと涙を浮かべながら息もつかず口に押し込んでいく。 喉を下っていくであろう腸詰は美味いのか。 想像もつかぬほどの空腹には何を入れても同じだと誰かが言っていた。 味わって食べる事なの皆無に等しいから。 少年は暖かいものを食べたことがあるのだろうか。 温もりを知っているのだろうか。 レンガのもつ一種独特な不思議な冷たさの中に潜みこまされた人工的な暖 かさに気付くのだろうか。 毎晩背を預け眠るそのレンガに。 歓楽街が近い。 少年が物心ついた頃からずっと寝屋にしていたその黴の匂い立ち込める滑 った路地裏は売春宿と酒場の間だった。 夜になっても灯が煌々と灯り、人の波が途切れる事のないこの場所で、少 年は押しつぶされてしまいそうな孤独感と恐怖に目を背けていた。 聞こえてくる声に耳を塞ぎたくなるほどの嫌悪と虫唾を感じながらも、血 が滲むほどに下唇を噛み締めずっとずっとひっそりと耐えてきた。 『この壁の向こうは暖かいのに』 どうしてこうも夜は冷たいのだろう。 月が今夜は三日月で嘲笑うかのように見え、石をひとつ空へ放った。 幾分離れたところで乾いた音がする。 静寂の中に良く響いた。 聞く者さえいないというのに。 瞳を閉じてもこの残酷なレンガは何かの軋む音だけを伝えてくる。 『あぁ頼むから』 何を願うのか。 こんな虚しい感情にどんな顔で耐えればいいのか。 涙などとうの昔に涸れ果てた。 知らぬ間に月は落ち、犬の遠吠えさえも聞こえぬ夜の深まりに穏やかに寝 息を聞いた。 人は死んだらドコへ行くのだろうか。 この世から消滅して尚苦しみと痛みを味合うことなんてあるのだろうか。 ここに勝るものなどはありはしない。 ここより酷い場所などありはしない。 ドコにでも行く。 ここでないならどこだっていい。 夢の中ですら安息などありはしないこの場所から逃げようと何度も思い、 何度も消沈した。 所詮ここに生まれたが最後。 この位置に存在するが最後。 油を塗られた壁に爪を立てたところで滑り落ちるのを止める事などできは しない。 足掻いて足掻いてこの現状を打破しようとしたところで出来ないことが既 に運命で。 流れに身を任せても、蛇が無数に蠢く泥の河では絡め取られて進む事すら ままならず。 岸に向かって泳ぐ事さえ叶わない。 ここから引き上げて。 それが叶わないなら河の底まで引き摺り下ろして。 地平線に黄色が流れた。 全ての人に平等だと言うその朝日も少年が蹲る路地裏には灯を届けない。 太陽が空を昇って降りても一瞬さえも灯はささない。 微かに聞こえる音楽と人々の笑い声と、壁の中からは昨日の働きを叩く怒 鳴り声。 人の生活で目を覚ます少年は何をするでもなく立ち上がり、路地裏からゆ っくりと大通りにでる。 挨拶をする人も居ないのだ、太陽の光りが黙っている月より冷たい。 今日はなんだろう。 街の空気が色づいている。 少年はふらふらと歩きながら一見のパン屋の前で立ち止まった。 店番がいない。 迷いもなく伸ばされたその手は生を掴み取るかのようにしっかりとひとつ のパンを握り締めた。 それを上着の中に隠しながら遠回りして帰ろうと走り出そうとした時だっ た。 ざわめきが音楽と共に近づいてくる。 たくさんの風船が空へ昇っていって、高い一輪車に乗った道化師や足に竹 馬をくくりつけた道化師などくるくる回りながら笑顔を振りまいた。 サーカスにしては動物が見当たらず、その行列はただ騒ぎながら通り過ぎ ていくだけだった。 少年は人ごみからほんの少し離れたところからそれを眺め固まった。 小さな人がやっと1人入れるだけの箱が四人がかりで運ばれているのを見 た。 その箱には穴が1つあいていて、少女の横顔が差した。 なぜ見えたのか。 あんな小さな穴から。 確かに見えた。 あの涙を称えた同じくらいの美しい少女。 上着の内側に隠したパンを手のひらで握りつぶしているのに気付かなかっ た。 『なんだっていうんだ。』 周りを踊り狂う道化師は泥隠しか。 幼い子供が喜ぶモノで大人たちは自ら汚点を覆い隠すのか。 パンを握り締めたまま、知らないうちのその行列の後をついていってしま う。 足が勝手に動くのは、中から湧き上がる激情ゆえなのか。 ただの好奇心なのか。 レンガの上を滑るように迷いなく進むその少女を乗せた箱は厭味な程に明 るい音楽を纏っていた。 少女が泣いている。 その大きなあどけなさを残す瞳に少しずつ少しずつ微かに溜っていくその 水分の量と比例して、唇を噛み締める強さも強くなっていくようだった。 瞼がきつくきつく閉じられて、少女の頭が垂れられた。 『そうか。』 行列が止まったのはそこら辺の民家が数十個入るほどの敷地があるであろ う大豪邸。 数多くの使用人が、大きな真鍮製の門を押し開いた。 その中に入っていくときは音楽は止み、道化師は無表情へと。 隠すモノが隠してくれるモノを上回った瞬間。 門が閉じられる。 その奥の扉が音を立てずに開かれる頃にその冷たく光門は大きな大きな騒 音のようにほくそ笑みながら閉じた。 音がするくらいにその門に噛み付く少年の両手の爪は白くなっている。 指の先は赤く赤く。 『そうか。ここがあいつを抱くんだ。』 いいじゃないか。 何も関係などないはずなのだ。 ただ、見ただけ。 その泣いている瞳を見ただけ。 その泣いている心を見ただけ。 ただそれだけ。 ああそうか。 それだけなのだ。 それだけなのだからどんな感情をあの少女に抱こうといけない事などない のだ。 彼女が此処に連れて来られた意味など理由など知り得るはずがなく。 感情を行動に移す躊躇いなど存在しないはず。 そうだとも。 少年と少女は他人。 少年は背を向け、歩き出した。 際限なく流れゆくこの人の波に飲まれないようにしっかりと地に足をつけ て歩く。 歩く歩く歩く歩く歩く。 歩く。 足が地面から離れる。 速く速く速く速く速く。 速く。 この叫びが人に聞かれることのないように。 己以外に響く事のないように。 力のない自分を恥じて蔑み自虐するような醜い叫びが天にも届かないよう に。 速く。 愛が愛が愛が愛が愛が 分からない。 少年は橙に染まった歓楽街の裏通りでその瞳をギラつかせた。 裏口に鍵などかかっている店などどこにもない。 ここも例外ではなく。 しかもそこを入った直の部屋は武器庫。 光りを鈍らせた小さめの剣。 少年は迷うことなく掴んだ。 『さぁ登るんだ。』 その店は坂の麓にあるのでソレを握ったまま登らなくてはいけない。 ついたときには橙で染まっていたこの街を今彩るのは甘い甘いきつい香水 の匂いと漆黒。 ゆっくりと確実に1歩を踏みしめる。 踏み外せば、剣の重みで下へ転がり落ちる。 この先の上りきったところにあいつがいるんだ。 間に合ううちに。 間に合ううちに。 何から救おうとしているのか、何を焦っているのか。 それすらも分からずに。 ただひたすらに坂を上り続ける。 ただひたすらに。 上を睨みつけて。 小さな体でも手でも大きな剣を振り回せた。 がむしゃらにわき目も振らず、大きな屋敷を駈けていく。 少女はそこにいる・と直感が教えていた。 一番上の東の端。 警報に怒鳴り声に。 何人の人に腕を捕まれ、首を押さえられ、止められただろう。 そのたびに少年は腹のもっともっと底から音をだして、振り払った。 初めて触れる温もりは鈍く光った。 剣が更に重くなったの感じたのは大きな扉を目の前にしてから。 横には肉の塊が転がって。 何かを叫んでいただろうか。 コレは。 記憶すら定かでなくて。 瞳の奥で燻る少女の横顔をただ引っ張り出したくて。 鮮明に思い出したくて。 頭の隅で確かに理解したことを心臓の辺りが拒絶をして上辺の脳が理解を したがらない。 気持ち悪い。 この気持ちがなんなのか分からずにただ剣を引きずって扉を押した。 『あぁ』 窓の前に置かれた少女はこちらをゆっくりと向くと、口を動かした。 声など届きやしない。 音すら聞こえない。 笑顔は張り付いていた。 何を言っているのか何を言いたいのか少年は読み取ろうと必死で。 それでもその努力を無駄で。 『遅かった』 頬が熱くなったのに気が付いた。 一筋だけ。 一瞬目の前が霞んで、少女が水槽の中にいるようにぼやけた。 迷いを振り払うように瞬きをひとつ。 妙に澄み切ったその視界には笑顔を浮かべた少女がいて。 少年は歩み寄ると何を言うでもなく腕を振り上げた。 重たい剣をここまで引きずり振り回し、両腕の毛細血管と筋肉が悲鳴をあ げていた。 これが最後だ。 貼り付いた気持ちの悪い笑顔が何かを振り下ろした瞬間、とても綺麗な澄 み切った瞳で笑った。 少女が眠った後、急激に顔の温度が下がっていくのを感じた。 いつものように寝床に帰った少年は目の前にあるレンガを見つめていた。 赤いレンガは闇に溶けて、赤黒くそこにある。 つい先刻まで目にしていた触れていた温もりに似ていて手をそっと伸ばし 頬をあてる。 瞼が全て開かない。 開いてしまったらなにか溢れてはいけないものがとめどなくとめどなく出 てきそうな気がしてしかたが なかったから。 確かな事は蘇ってくる感覚。 『お腹が空いた』 東の空が明るんだのが見えた。 路地裏から足を踏み出すとまだ誰もいない大通りを1人で歩いていく。 意味もなく走りだした少年の両手は固く握られていた。 心臓がチクリチクリと痛み出す。 正体の分からない痛みは少年をただ悩ませ、その痛さを頭に刻み込んでい く。 痛みだけは人の倍も三倍も知っている。 痛みだけは。 その他の感情なんて欠落もいいところ。 欠落していることすら知らないのだから。 感情の存在をしらないのだから欲する事もなく。 しかしその感情の名に相応しい感覚は少年を襲う。 そんなもの知らない少年に容赦なく襲い掛かってくる重くて軽くて暖かく て痛くなる想い。 人を愛すると言う事。 少年の走りついた先を知る人は誰もいないと言う。 レンガは今でも妙に暖かく残酷を孕んでいる。